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分倍河原の戦い (鎌倉時代) : ウィキペディア日本語版 | 分倍河原の戦い (鎌倉時代)[ぶばいがわらのたたかい]
分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。 == 背景 == 元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下一族の脇屋義助、大舘宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、江田行義、桃井尚義ら総勢でもたった150騎ばかりであったと謂われる。しかしながら、南行して利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、羽川の各家)や、甲斐・信濃の源氏一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで及んだ。 5月9日、利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子・千寿王(後の足利義詮)が紀五左衛門に伴われて合流、さらに外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、この後上野、下野、上総、常陸、武蔵の鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、新田軍は20万7千まで膨れ上がったとも言われる。 さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦い、5月12日久米川の戦いで、相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退した。
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